匪夷所思:日本人责任感的两面性
沪江2015-05-26 20:44
この調査結果は質問形式なので、日本人は他人を助けた場合でもそれを「人助け」だと自覚していない場合が多いのかもしれないとオースティンさんは語っています。しかし彼は同時に、それがどの程度数字に反映されるのか疑わしいとも言っています。
奥斯汀说,此调查是以提问的形式,日本人即使在帮助别人的时候,也没有意识到这是在助人的情况可能也比较多。但是他说,与此同时,这点究竟能反应在多少程度的数字上是值得怀疑的。
市民の社会活動参加という責任を語る上では、もうひとつ良い例があります。それは、「選挙の投票率」。日本国民全体の投票率は52.6%と、世界的に見てもさほど低いものではありません。しかし、若者の投票率となると諸外国と比べて圧倒的に低い数字です。去年(2013年)の参議院選挙で20代は33.37%。3人に1人しか選挙に行かなかった状況を示しています。日本の若者は、日本国民としての責任を果たしていないと言わざるをえません。
从市民参加的社会活动上的责任这点来言,还有一个更好的例子。那就是“选举投票率”。日本全体国民的投票率是52.6%,这点即使在世界看来也是不低的。但是,一说到年轻人的投票率,跟其他国家相比却是绝对低的数字。去年(2013年)参议院选举投票中20岁的青年人占33.37%。也就是说3个人中只有1个人选举。不能不说日本的青年人没有尽到日本国民的责任。
日本人のもつ「責任感」の特異性
日本人持有的责任感的特别性
これはあくまで日本が好きな一人の外国人の意見なので、それが真実というわけではありません。しかし、私たち日本人が意識していなかった「日本人特有の責任感」というのを、多面的に観察するという意味で、非常に興味深い内容だと筆者は思いました。
这只是一个喜欢日本的外国人的看法,并非完全真实。但是,笔者认为:在我们日本人没有意识到“日本人特有的责任感”要从多方面观察这层意义上来说,是非常趣味深长的。
確かに日本人が「責任感」を語る場合、ルールや約束を守るということに意識が集中してしまう傾向にあると思います。その結果、「ルールはも持っているから大人としての責任を果たしている」と思ってしまいがちです。
确实谈及日本人的责任感的时候,都会倾向集中在遵守规则或者约定这种意识层面上。其结果,会错认为“因为有规则,就必须尽到作为大人的责任 ”
しかし、現実には「大人として積極的に社会や政治に参加する」という責任もあります。この点は、今後の日本人の課題なのかもしれません。
但是,现实生活中“作为大人也要有积极参见社会或者政治的责任”这点,或许会成为日本人今后的课题。
また、日本人は「個人の責任と集団の責任を混同しやすい」というのも面白い観察です。実際にこれが日本社会で受け入れられるかは別として、抗議をする側も、抗議される側も「誰に非があるのか?」という区別をはっきりさせるべきです。
另外,日本人“个人责任和集团责任容易混淆”这点,是很有意思的观察。抗议一方,被抗议一方,都应该清楚区分“谁是错的?”
責任感とは、自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち。そして責任とは、立場上当然負わなければならない任務や義務のことを言います。あなたは日本人の「責任感」についてどう思いますか?
责任感是对自己的工作或者行为尽职尽责的一种心境。而,责任可以说是立场上必须要担负的一种任务或者义务。你对日本人的责任感是怎么想的呢?
日本人は、ルールや約束事をきちんと守るという責任感は他国と比べて非常に強いが、これは個人が集団に対する責任を果たそうという意識が働くからである。しかし、集団ではなく個人に対する責任となると、なおざりにされやすい。長いものに巻かれる個人が全ての責任を負うという不公平な構図が存在している。積極的な責任(社会や政治に自ら参加する責任)は意識していない人が多い。自分に直接関係のなさそうなボランティア活動には参加しない。
日本人,非常遵守规则和约定的责任感比其他国家都强,这是从个人对集团要尽职尽责的意识作用中产生的。但是 、不只集团,一到对个人的责任,就容易忽视。还存在着长期禁锢的个人要承担所有责任这种不公平的结构。没有意识到积极的责任(自主参加社会或者政治的责任)的人很多。不会参加对自己没有直接关系的志愿者活动。
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(编辑:杨帆)
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